デジタル化で朝日新聞に大きく遅れた読売新聞だが、記者の知識不足がネット上でさらされない恩恵は大きいのでは?
読売新聞が報じた文科省・事務次官の経歴を持つ前川喜平氏のスキャンダルに対し、リベラル派を中心に批判の声が出ています。
「読売の姿勢を恥ずかしく思う記者が自らの意見を述べられない」とアナログ体制をバッシングしていますが、デジタル化に移行することは “諸刃の剣” となります。
デジタル化で先行した朝日新聞の記者が公式アカウントで無知をさらけ出すケースが相次いでいることへのマイナス部分は軽視できるものではないからです。
「個人の見解で、社の見解とは異なる」は言い訳に過ぎない
デジタル化に力を入れた朝日新聞では記者が公式アカウントを保有しています。ただ、公式アカウントが持つリスクを上手くコントロールしなければ、大きなマイナス面があることを理解していなければなりません。
「個人の見解で、社の見解とは異なる」との “但し書” は単なる言い訳にすぎません。
個人の見解なら、社名を提示する必要はないでしょう。基本的には “社の見解” という形で意見を述べておきながら、批判が寄せられると「社の公式見解とは異なる」との逃げ道を用意しているのです。
『言論の自由』を掲げるなら、公式アカウントを持つ記者の投稿内容にも自由を与えるべきと言えるのではないでしょうか。
ネット(SNS)は双方向であることを理解できない記者に公式アカウントを与えるべきでない
新聞やテレビなど既存メディアによる情報発信は方向は一方通行です。しかし、ネットや SNS サイトでは双方向です。
つまり、誰でも情報を発信できる手段を持っており、記者が取材を行った本人がネットで情報を直接配信したり、取材対象の同業他社に属する個人がネットで情報を発信することができる時代なのです。
“素人” に過ぎないマスコミによる論説は専門家やマニア(ヲタク)がネット上で査読できるです。この現実を理解していない記者に公式アカウントを与えてしまうと、炎上して当然と言えるでしょう。
開き直りを見せれば、逆効果になります。「記者職は生涯学習が当たり前、取材対象に教えてもらう立場」と腰が低い記者であれば、大きな問題を起こすことはないでしょう。
しかし、プライドが高く、肩で風を切るタイプはメディアの信用を落とすだけであり、自滅の一途をたどっていることすら気づいていない有様なのです。
「事実を捏造してでも政権批判をして欲しい」と頼んだ覚えはない
読売新聞が “政権寄り” で、朝日新聞が “政権批判寄り” でも何ら問題はありません。それぞれの視点から事実を正確に伝えてくれることを期待しているからです。
一方の視点から論じた内容が必ずしも正確ではないことは経験則で感じている人が多いでしょう。重要なことは「事実を正確に伝えること」であり、記者の “主観” を織り交ぜることではないのです。
また、「捏造・歪曲してでも政権批判をして欲しい」とメディアに頼んだ覚えはありません。『報道』を名乗るのであれば、そのような依頼があった場合は毅然と断ることが不可欠であるはずです。
報道機関が伝えた内容が正しいかを読者がわざわざチェックしなければならない。そのような頻度が高くなるほど、マスコミは信用を失うことになるのです。
“公式アカウント” を持っている記者がいれば、所属機関が誤報を疑われる記事を出した際の対応を余儀なくされます。
社名を日常的に使っておきながら、都合の悪い時に「知らぬ存ぜぬ」は通用しないことを自覚しなければなりません。記事の内容に問題がある場合の指摘先を明示し、まっとうな批判に対し、社の見解をウェブサイト上で公表するという体制を構築済であることが “記者の公式アカウント制度” を使用する前提条件と言えるでしょう。
オウンゴールを連発するリスクが高い “記者の公式アカウント” を認めてない読売新聞の現行制度でも得られるものはあると言えるのではないでしょうか。