国民の代表は「選挙で選ばれた議員」である、記者ではない
日本テレビの清水潔氏が自身のツイッターで「記者は国民の代表」と主張し、記者のいかなる質問にも政治家は答えるべきと主張しています。
これほど思い上がりの激しい人物は珍しいと言えるでしょう。選任されるプロセスすら存在しない記者が「国民の代表」として振る舞う姿は “御門違い” です。
清水潔氏は「記者が国民の代表」という根拠を提示せよ
国会議員は選挙による審判を受けているため、「国民の代表である」ことの根拠が存在します。
その一方で「記者が国民の代表」という根拠はどこにあるのでしょうか。それを示すことができなければ、記者は国民の代表とは呼べないのです。
少なくとも、記者は国民を代表する権限を有していません。“国民の代表” を自称しているに過ぎない存在と言えるでしょう。
官邸に入るための記者証を得るための日本国民からの審判を受けるべき
“国民の代表” と名乗りたいのであれば、「記者証を受け取るに相応しい人物であるか」を争点にした日本国民からの審判を受けなければなりません。そうした審査もなく、国家資格のような試験も経ていない人物が “国民の代表” を名乗るのは失笑物です。
国会議員として当選するには最低でも小選挙区で5万票は必要となる訳ですから、官邸で質問をするには同程度の日本国民が記者証を出すに値すると指示した人物に制限を設けるべきでしょう。
5万人の日本国民が「清水潔氏は記者証を受け取るに相応しい」と判断すれば、記者証が発行されるという形で取材活動を行うマスコミを選別する必要があります。
大手マスコミ発であろうと、フリージャーナリスト発であろうと、事実を伝えればどの媒体でも関係ありません。「日本国民を代表している」という自覚を持ち、日本国民の品格を貶めないという態度で取材に当たり、正確な情報を国民に伝えるという仕事をしている記者からすれば、歓迎すべき制度と言えるはずです。
“国民の代表” との名乗るのであれば、その理由を述べるという説明責任を果たせ
「記者は国民の代表」と主張する清水潔氏はその理由を説明する責任があります。“国民の代表” である政治家に対し、日頃からそのように要求しているからです。
自らの立場を “国民の代表” と名乗る以上、責任も負わなければなりません。政治家が私腹を肥やすことは厳禁なのですから、マスコミも公平中立でなければならないことは自明です。
また、国民の疑問に対し、真摯に対応することは代表者としての責務と言えるでしょう。「なぜ、記者が国民の代表と言えるのか」というツイッター上で寄せられた質問に答えず、ブロックして逃げるようでは “国民の代表” とは呼べないものです。
これほど恥ずべき “国民の代表” は珍しいのではないでしょうか。
マスコミとしては中国共産党のような体制が理想なのでしょう。一部の界隈が “代表者” として振る舞い、好き勝手に方針を決定することができるからです。
自分たちが決めた方針を世間が反発することはありませんし、権力基盤を揺るがす要素は徹底的に弾圧したとしても批難されることも起こりづらいからです。
少なくとも、清水潔氏は日本国憲法の前文を読み、理解しなければなりません。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
憲法の条文を「日本国民は、代表者である記者を通じて行動し、〜」とでも認識しているのでしょう。「改憲を許さない」と怒りの声をあげているマスコミは清水潔氏の主張内容を厳しく批判する必要があるのではないでしょうか。