『戦術核』を強化済みのロシアにアメリカが対抗するのは当然の動き

 アメリカのトランプ大統領が『新たな核戦略』を発表したことを受け、「核軍縮の流れに反する」との懸念の声が出ていると NHK が報じています。

 「自国や自国民の安全を守ること」が国のトップに課せられた使命です。そのため、『既存の核戦略』に問題点があるなら、対応策を講じるのは当然のことと言えるでしょう。

 “現状の問題点” から目を背けた批判では敵国を利するだけであることを自覚しなければならないのです。

 

 アメリカとロシアの核軍縮条約「新START」は、2011年2月5日に両国が批准書を交わして発効し、7年以内に戦略核弾頭の配備数を1550以下に減らすほか、弾道ミサイルや戦略爆撃機も削減することを両国に義務づけています。

 削減の期限となる5日、アメリカとロシアはそれぞれ声明を発表し、戦略核弾頭の配備数をアメリカが1393に、ロシアが1444に減らすなど、それぞれ削減を実行したと発表しました。

 ただ、両国の核政策をめぐってはロシアが条約で削減対象になっていないいわゆる「戦術核」の強化をはかってきたほか、アメリカのトランプ政権もこれに対抗する形で核戦力を強化する方針を打ち出しています。

 

 核兵器には『戦略核』と『戦術核』の2種類が存在します。

 『戦略核』は「大陸間弾道ミサイルに搭載したりするタイプ」であり、『戦術核』は「個々の戦場や射程距離の短いミサイルに搭載されるタイプ」と一般には分類されています。つまり、威力と目的が異なる2種類の核兵器が存在しているということになるのです。

 

1:『戦略核』を使えば即座に核戦争だが、『戦術核』では難しい

 冷戦時は核戦争が懸念されていましたが、対立する両陣営が保有する核兵器で均衡が保たれることになりました。これは当時の核兵器が『戦略核』に分類される威力が極めて強いもので、使用すれば即座に核戦争となる可能性が高いものでした。

 そのため、“伝家の宝刀” という形で「保持はしているものの、実際には極めて使用しにくい兵器」となっていたのです。

 威力が強すぎで使用すると顰蹙を買うのであれば、威力を抑制することで使用のハードルは下がります。そうした目的を背景に開発されたのが『戦術核』なのです。

 『戦術核』は威力を抑制しているため、「『戦略核』は使っていない」と開き直る余地があります。「核(=『戦略核』)で制裁するなら、こちらも同様の対抗措置(=『戦略核』の使用)をする」と言われると、『戦術核』を持たない国は “泣き寝入り” を強いられるという現実があるのです。

 

2:『戦術核』や『それと同等の武力』を背景にした恫喝にどう対応するのか

 ロシアはクリミア半島を併合した際に「核兵器を使う用意があった」と認めている上、『戦術核』の開発にも積極的です。『戦略核』よりも威力を抑えた『戦術核』で巧みに恫喝し、自国の利益を手にしている国の1つと言えるでしょう。

 こうした国を “何らかの手段” で抑えなければならないのです。

 ICAN が主張するような「話し合い」で効果が得られるでしょうか。相手は以前ほど使用を躊躇しない『戦術核』を持っているのです。“会談を設けるための大きな譲歩” を要求された上、何の効果ももらたさずに交渉は終わることでしょう。

 活動を抑止させるには「相手も同じカードを持っている」に気づかせ、自発的に行動を抑えさせることで均衡状態が訪れます。これが “平和” という状態であり、互いに牽制していることで成り立っているのです。

 パワーバランスが崩れた状態を放置すれば、新たな均衡状態が確立するまで不安定な事態が続くことでしょう。このような事態こそ、避けなければならないことなのです。

 

3:「戦略核の配備数」だけによる核軍縮では意味がない

 マスコミが取り上げる「核軍縮」で対象となっているのは「『戦略核』の配備数」でカウントされるものです。『戦術核』は対象に含まれていません。

 つまり、使い勝手の悪い『戦略核』の配備数を減らし、使いやすい『戦術核』の配備数を倍増させても、「核軍縮に積極的に取り組んでいる」とアピールが可能なのです。

  • 戦略核:1500発 → 1000発
  • 戦術核:0 → 1000発

 『戦術核』の威力次第では「核軍縮に逆行」という事態も十分に想定できることです。ただ、『戦略核』が『戦術核』に置き換わるのであれば、核兵器の総数は同じでも影響度は減少することになりますので「核軍縮が進んだ」という状態だと言えるはずです。

 “単一の視点” に固執しすぎると、周囲の変化に気づくのが遅れ、取り返しのつかない事態になることがあります。「核兵器の廃絶」を訴えるのであれば、周囲の状況を把握した上で国民の生命・財産が危険にさらされる可能性が極めて低い現実的な手法が採用されることを訴える必要があると言えるのではないでしょうか。