“従う快感” の怖さは「ファシズム」ではなく、「群集の当人たちが無意識の間に発揮されること」である

 安倍政権をファシズム政権との印象を持たせるために熱心な朝日新聞が「ファシズム体験」を行った杉原里美記者の記事を掲載しています。

 “不寛容な空気” を左派は批判していますが、社会に「不寛容さ」をもたらしているのは朝日新聞や野党のような左派自身なのです。自分たちの行為を棚に上げ、批判することは問題の本質を見誤るリスクを含んでいると自覚しなければなりません。

 

 不寛容な空気が、今の日本にも漂っていないか。その正体に少しでも近づきたいと思い、ある大学の体験学習に参加してみた。

 (中略)

 「最初は命令でやらされていても、集団に同調すると、責任感がまひしてしまう。ファシズムは抑圧的なイメージでとらえられるが、従っている人は、むしろ自由を感じている」と教授。「その感覚を体験すれば、本当の怖さが分かる」

 杉原記者が参加したのは甲南大学で田野大輔教授が行っている特別授業です。

 社会学で教鞭を取っているため、“ファシズム” の問題点を学生に実感させる目的があると言えるでしょう。ただ、最近ではメディアや野党が安倍政権に “ファシスト” のレッテル貼りをすることに勤しんでいるため、内容を再考する必要もあるでしょう。

 

「“集団心理” に同調すると、個人の責任感が麻痺する」ことが根本的な原因

 『ファシズムの体験学習』という名目があるため、「ファシズム固有の問題」と誤解を招く可能性がある部分が田野教授の授業に含まれた問題点です。

 授業の肝に当たる部分は「集団に同調すると、責任感がまひしてしまう」と田野教授が言及している部分でしょう。つまり、“特定の主張” を持つ集団に同調すると、参加した個人の責任感は薄れるのです。

 これは「自分1人の責任ではない」という自己弁護が無意識に働くからです。トップの立場にいない人間が集団や組織の行為に対する責任を負うことはまず起こり得ないことです。また、「自分の責任であったとしても、他の人が責任を分担してくれる」と都合の良い思い込みも起きるでしょう。

 “居心地の良いと感じる集団” には構成員が甘えを起こしやすい要因が始めから存在しているのです。ファシズムに限った話ではないため、『組織論』として扱うべきテーマと言えるでしょう。

 

目的を持った集団と方向性が一致していれば、「自由」を感じるのは当たり前

 集団に同調した人が「自由」を感じる理由は「『所属する集団が目指す方向性』と『個人の目指す方向性』が一致しているから」です。

 (最初は嫌々であっても、)集団の姿勢に同調した時点で、目指す方向性が一致したことになるのです。この時点で「集団内には(個人の)障害(となる物や要素)はない」という状況が起きる訳ですから、集団に参加する個人が『自由』を感じるのは当然のことなのです。

 集団で感じる『自由』を「従う快感」と記事では紹介していますが、この怖さを実感できるのは『ファシズムの体験学習』だけではありません。例えば、野党やマスコミが積極的に支援するデモ活動でも “危うい快感” を得ることができます。

 ファシズム運動では「集団による統一された行動」で体験していましたが、デモ活動でコールに従って「〇〇ヤメロ!XXハンタイ!」と声を合わせて叫べば同じ快感を得られるのです。

 左派団体が主催するデモ活動では「左派界隈が指定する思想・価値観を持つ集団に同調する個人」が主たる参加者です。田野教授が行った『ファシズム体験学習』と同じことが街中で堂々と行われている訳ですから、こちら運動にも同様の “怖さ” があることを記事で伝える必要があるでしょう。

 

“従う快感の恐ろしさ” は「甲子園の観客」が実証済み

 “従う快感” の怖さ・恐ろしさを実証しているのは「甲子園の一般観客」です。彼らは基本的には中立ですが、何らかの理由やタイミングで『集団(= どちらかのチーム)』に同調します。

 そうなると、「中立の立場で応援する」との個人の責任感は薄れ、贔屓する高校の応援に力が入ります。周囲の観客も同じ行動を取っているのですから、『集団』に同調して応援している人は「自由」を感じていることでしょう。

 これがどのような「パワー」を持ち、グラウンドで戦う高校球児にどれだけの影響を及ぼしているかは容易に想像できるはずです。

 『がばい旋風』としてマスコミが異様なまでに肩入れをした2007年大会は球史に残る汚点です。公平・中立でなければならない審判員まで雰囲気に飲まれたのですから、明らかに反面教師として扱うべき教材と言えるでしょう。

 しかも、観戦客・審判・マスコミは “従う快感” で満たされていたことを自覚・反省していないのですから、危険な状況であることに変わりありません。

 

 ファシズムと “同じ仕組み” で機能している集団や組織は日常的に存在しているのです。この事実を自覚し、ファシズム的な手法で政治活動を実施している集団を右派や左派といった党派性に関係なく、批判する必要があると言えるのではないでしょうか。