弁護士の伊藤和子氏、「『被害者情緒法』に基づく “市民” に寄り添った判決」を要求するツイートを行う

 4月上旬前後に地裁で争われていた性犯罪に関する裁判で無罪判決が出たことに対し、「無罪判決がおかしい」との声が上がり、中には「有罪でなければおかしい」などと “暴走” する人々まで出ています。

 判決理由を確認せず、有罪か無罪かの結論だけを見て「判決は間違い」と主張することは司法の否定に他なりません。

 「(裁判についての)断片的な情報しか得られていない情報を基に素人が下した判断を判決とすべき」と主張することは『人民裁判』と同じです。そのような判決基準を要求する弁護士の伊藤和子氏は「『論理』よりも『感情』を優先すべき」と主張していることを自覚すべきと言えるでしょう。

 

伊藤和子弁護士のツイート内容

 弁護士の伊藤和子氏は以下のツイートを行っています。

画像:伊藤和子弁護士によるツイート

 大衆は有罪無罪に口を出すなという一部弁護士の姿勢。

 これは結局、最高裁を頂点とする官僚的な司法統制を打破して市民に寄り添う司法を実現しよう、という司法民主化の方向性と相容れない大衆蔑視のエリート主義であり、官僚司法を温存補完する結果となる。

 その系譜とはこれまでも戦ってきたのね。

 伊藤弁護士は「大衆は有罪無罪に口を出すなとの姿勢を一部の弁護士が示している」と主張していますが、具体的な弁護士名に言及することは避けています。

 と言うのも、批判は「(判決文の)詳細が不明瞭な(マスコミの)記事に基づいて無罪判決を間違いと批判するな」というものがメインです。伊藤弁護士は実在が疑われる “架空の弁護士” を作り出して自説を展開している可能性がありますので、ツイートが批判される理由は十分にあると言えるでしょう。

 

“市民に寄り添う司法” とは「人民裁判」であり、『国民情緒法』の存在が揶揄される韓国と同じである

 伊藤和子氏のツイートで問題視されるべきは「市民に寄り添う司法」と名で “人民裁判” を求めていることでしょう。これは「『国民情緒法』が最上位に存在する」と揶揄される韓国司法と同じです。

 一般人が『感情論』に走ることは止むを得ません。なぜなら、裁判の判決文を入手することは困難だからです。

 しかし、弁護士にとっては低いハードルです。司法関係者に求められているのは「『判決文の内容』を論理的に批判すること」であり、「自分の期待する判決を支持する一般人を持ち出して司法に圧力を加えること」ではないのです。

 伊藤弁護士がやっているのは後者であり、これは活動家と同じです。「法律の内容」よりも「被害者や市民の感情」が優先される社会を要求しているのですから、問題ありと言わざるを得ないでしょう。

 

“人民裁判” が一般化するなら、法の専門家である弁護士の存在価値は著しく低下するだろう

 裁判の判決文を精査しない一般人が「有罪か無罪か」を決める『人民裁判』が当たり前になれば、弁護士の存在価値はゼロも同然になるでしょう。裁判所は “世間の要望” に忖度した判決を下すようになり、弁護士活動は意味をなさなくなるからです。

 メディアで顔が売れている弁護士資格を持った活動家は “市民” を煽動しやすい立場にあるため、『人民裁判』の導入に肯定的です。

 気に入らない人物を「世間が有罪と見なしている」との理由で社会的に抹殺することが可能になるのです。“生殺与奪権” を握ることと同じなのですから、権威・権力志向の強い一部の左派活動家界隈が『圧力』の道具として利用することは徹底的に否定する必要があります。

 人民裁判を要求する界隈が韓国と親和性が高い理由は「似た者同士」だからでしょう。日本では「被害者情緒法」に基づく判決を求めている活動家がメインですし、韓国では「国民情緒法」に基づく判決が出ているからです。

 

 左派の活動家は「左派が支援する被害者の心情に沿った判決が出る」と思い込んでいるようですが、『人民裁判』が常態化すれば、「左派によって被害者となった人々の心情に配慮した判決」も出ることになるのです。

 例えば、渋谷暴動事件で逮捕された中核派の大坂正明容疑者に「遺族および世間の心情に基づき死刑に処す」との判決を下すことも正当となるのです。

 「証拠」によって刑罰が下されるのではなく、「心情や心証」を理由に罰せられる社会は中世と同じです。市民が判決を下して良いなら、“私刑” と変わりありません。そうなるような変更要請に対しては批判する必要があると言えるのではないでしょうか。