愛知県の政策顧問を務める上山信一・慶応大教授、『昭和天皇の写真を燃やす映像作品』を「燃やすことは祈り」を奇想天外な擁護論を述べる

 愛知県政策顧問の肩書きも持つ上山信一・慶応大教授が『あいちトリエンナーレ』に対する批判が起きる原因の1つとなった『昭和天皇の写真を燃やす映像作品』を「燃やすことは祈り」との擁護論を自身のツイッターで展開しています。

 この主張は「あまりに無理筋である」と言わざるを得ないでしょう。

 

画像:上山信一・慶応大教授のツイート

 いや燃やすという行為は、祈りなんです。神社で自分の願いを書いたお札を燃やすのも祈り。神に自分を近づける行為は痛みを伴う喜びとされている。東洋哲学の天空逍遥の一形態なんです。

 

左義長や “どんと” を持ち出すのは筋違い

 上山氏が持ち出したのは「小正月に行われる火祭り行事」の価値観でしょう。地域ごとの差異はありますが、門松や書き初めが燃やす対象となるため、“祈り” の側面も含まれるからです。

 しかし、『あいちトリエンナーレ』に出展された『昭和天皇の写真を燃やす映像作品』はこれには該当しません。

 なぜなら、「祈り」の範疇には該当しない行為が映像の中に描かれているからです。この部分を無視した擁護論は論外と言わざるを得ないでしょう。

 

燃えた後の灰を踏みつける行為が「祈り」に該当するのか

 「祈りではない」と主張する根拠は “対象物が燃えた後” に描かれています。

画像:問題の映像作品

 問題の映像作品は「バーナーで昭和天皇の写真を燃やし、その灰を踏みつけた」のです。これが「祈り」であると言える根拠はどこにあるのでしょうか。

 上山氏の出身である近畿圏では “どんと焼き” で縁起物を燃やす風習があります。しかし、「灰になった縁起物を見物人が踏みつける」という文化や風習はないはずです。

 そのような文化が存在しているなら、具体的な地域名を示して反論をすべきです。それができないのであれば、「自らに肩書きを与えてくれた愛知県を擁護するために無理筋な主張を展開している」と批判せざるを得ないからです。

 

「燃やすことは祈り」と主張する上山氏は自身の家族や主要国の指導者の写真を燃やして祈るべきでは?

 上山氏が本当に「燃やすことは祈りである」と考えているなら、“自身の家族” や “主要国の指導者” の写真を堂々と燃やしていることでしょう。なぜなら、写真の人物に対する祈りを捧げていることになるからです。

 ですが、そのような行為をしたとの報告・公表はありません。したがって、「燃やすことは祈り」という主張は詭弁に過ぎないのです。

 このロジックが成立するなら、(イスラム教の聖典である)コーランを燃やすことはできるでしょう。「コーランを神に近づけるための行為である」との論理が上山氏のロジックからは成り立つからです。

 また、『あいちトリエンナーレ』で展示されていた慰安婦像を燃やす行為も「祈りである」と正当化ができてしまうのです。このような詭弁がまかり通ってしまったから、大炎上を招く原因になったと言えるのではないでしょうか。