検察(=大阪地検)の凡ミスで警察(=大阪府警)が逃走者の捜索を強いられることは不憫でならない

 大阪地検が車で護送中の男に逃走された事件で、警察が男の身柄を大阪市北区で確保した NHK が伝えています。

 大阪地検では先月30日に収容予定だった女に逃亡されており、この2週間で2度目の失態となります。逃走犯の確保には「逃した検察」ではなく、「地元の警察」が動員されるのです。

 仕事を増やされる大阪府警は不憫と言わざるを得ないですし、逃走の原因を凡ミスで作った検察が目に見える処分を下されない現状では緊張感が欠けた状態で職務を行うことが考えられるため、対応を練る必要があると言えるでしょう。

 

 9日、大阪 東大阪市で大阪地方検察庁が車で護送していた男に逃走された事件で、11日午後2時ごろ男が大阪北区の淀川にかかる橋で見つかり身柄が確保されました。

 身柄が確保されたのは、9日の早朝に東大阪市内で大阪地検の護送車両から逃走していた大植良太郎被告(42)です。

 大阪地検は覚醒剤の使用などの罪で起訴されている大植被告の保釈が取り消されたことを受け、事務官3人が大植被告を収容するため車で護送していました。

 ところが「手錠がきつい」と言われた事務官が片方の手錠を外したところ、車内で暴れられたうえドアを開けて逃げられました。

 (中略)

 11日午後2時ごろ、大阪 北区の淀川にかかる十三大橋の上で警察が大植被告を発見し、身柄を確保しました。

 

検察が護送中の被告に逃走された理由があまりに粗末

 この問題で批判されるべきは「逃走された理由があまりに粗末」なものだからです。映画で描かれるように「被告の仲間が計画的に襲撃して逃げられた」のであれば、検察に対する同情の声も上がったでしょう。

 しかし、実際には「手錠がきつい」と被告に言われて “片方の手錠を外した” ところ、車内で暴れられて逃走されたのです。手錠を緩めるのではなく外した上、取り押えることにも失敗しました。

 ミスが重なっていることは明らかであり、護送における対応そのものを見直す必要があるはずです。特に、この2週間の間に護送・収容対象者に逃亡される事件を2件も起こしている大阪地検は厳しい批判にさらされるべきと言わざるを得ないでしょう。

 

警察と住民には「逃亡によるしわ寄せ」が行くが、検察はさしたる実害を被らないことが問題の温床なのでは?

 地検が護送対象者や収容予定者に逃亡を許しがちな理由は「責任を取らされない無責任に近い立場」であることが根底にあると考えられます。

 警察が容疑者に逃走を許した場合、組織として世間からの批判を浴びることに加え、現場の警察官が追跡捜査に駆り出されます。つまり、“身内” の仕事を増やすことになるため、雑な仕事はできないというプレッシャーがあります。

 その一方で、検察は組織として批判を浴びることはあっても、「なぜ逃走犯を発見・逮捕できないのか」との突き上げを検察が受けることは稀でしょう。なぜなら、「逃走犯を捕まえるのは警察の仕事」と世間一般に認識されているため、“検察が逃した容疑者” であっても批判の対象になりにくいからです。

 警察の余計な仕事を増やすことに加え、周辺住民に不安を抱かせる失態をしたにも関わらず、処分が軽微なものでは同様の事件は再発し続けることになるでしょう。

 検察事務官が護送する状況であっても、(体力的に劣ると目される)女性警察官と同等の体力・逮捕術を備えているべきです。そうした体制が “検察” でも構築され、適切に運用されていることを世間に示すことが再発防止策になると言えるでしょう。

 

「被告を司法の場で追求する検察」に雑な仕事をされてしまうと法治国家が機能しなくなる

 検察に “雑な仕事” を常態化されてしまうと、問題も生じることになります。その1つが「『法治国家』が機能しにくくなること」でしょう。

 検察は「司法の場で被告を訴追する役割」を担っている公的機関ですが、仕事が雑になるほど、この機能が低下してします。警察が容疑者を逮捕しても検察が「不起訴」とすれば、容疑者は無罪となるのです。

 最近では「車のフロントガラスを叩き割って器物損壊に問われた男を不起訴」にしたケースが代表例でしょう。この事件はドライブレコーダーに映っていたため、犯行があったことは明らかです。しかし、理由も明かさずに不起訴としたのですから、不信を招く理由になってしまいます。

 大阪府警は留置所から容疑者に脱走されるという失態をしましたが、大阪地検で発生した2件の逃走事件はこれに匹敵するレベルです。保釈制度の見直しに加え、執行を担う検察事務官に求める能力についても再検討の余地があると言えるのではないでしょうか。