日本に「難民を受け入れよ」と要求するローマ教皇はお膝下のバチカン市国で “難民受け入れの成功例” を実証すべき

 来日中のローマ教皇・フランシスコが都内で開かれたイベントで日本に対して「もっと難民を受け入れるべき」と呼びかけたとテレビ朝日が報じています。

 日本国内の治安に何の責任を持たない宗教家の意見に配慮する必要はありません。「難民を積極的に受け入れること」がカトリックによる “人間認定” に不可避であるなら、バチカン市国などで「受け入れの成功例が存在すること」を実証すべきと言えるでしょう。

 

 ミサに先立ち、フランシスコ教皇は都内の教会で難民留学生らと対話するイベントに出席し、日本がもっと難民を受け入れるよう呼び掛けました。

 (中略)

 若者ら約900人が集まった「青年の集い」には難民申請者のほか、難民留学生も招待されました。フランシスコ教皇は難民や在留資格のない外国人などに対して日本が厳しい対応を取っていると指摘し、より寛容な政策で難民らを受け入れるよう訴えました。

 

ローマ教皇は信者からの訴えに理解を示し、対処責任を各国政府に丸投げしているだけ

 発言があった『集い』は日本カトリック司教協議会が主催したものですから、カトリック系の活動家による政治的主張が色濃く現れることになります。

 なぜなら、「教皇は信者からの声に理解を示す」をいうお決まりの “台本” があるからです。難民申請者らは主催者から招待されたのですから、そうした立場の人々にローマ教皇が同情を示すのは火を見るよりも明らかと言えるでしょう。

 ただ、自分たち(= カトリック教徒)がそうした境遇の人々を支援することを讃えるのではなく、日本政府に受け入れを要求していることは論外です。

 なぜなら、「各国政府が予算を立てて難民希望者の生活の面倒を見るべき」と言っていることと同じだからです。他者の社会インフラにタダ乗りすることを企んでいるのですから、批判を受けることは当然と言わざるを得ないでしょう。

 

ローマ教皇のお膝下であるバチカン市国で難民を寛容に受け入れるべきだ

 日本に対して「より寛容に難民を受け入れるべき」と主張するなら、それはローマ教皇のお膝下であるバチカン市国ですべきことです。

 自分たちが積極的にやらないことを他国に要求することは論外です。とは言え、「キリスト教の神を信仰すること」がカトリックの教えの根幹にあるのですから、(カトリック教徒の少ない)日本人を “未開人” 程度にしか見なしていないのでしょう。

 だから、自分たちの宗教的や倫理的な理由で「正しい」と決めたことを上から目線で諭す “勘違い発言” を連発する結果となるのです。

 「難民を受け入れる意義がある」と主張するなら、その意義をカトリックの総本山であるバチカン市国で示せば良いのです。ローマ教皇自らが世界中の信者に対して意義を発信できれば、カトリック教徒が多数派の国で難民受け入れがより積極的に行われることでしょう。

 ローマ教皇が直視すべきは「国民の80%がカトリックと言われるイタリアで難民への風当たりが極めて強いこと」です。批判の少ない日本で極端な主張を掲げる信者の声に寄り添ったところで、根本的な問題は何ら解決する見込みがない現実を認識する必要があると言えるでしょう。

 

ローマ教皇は難民という建前で日本に居座り続ける在日韓国人に言及する必要がある

 また、日本では朝鮮戦争が “停戦となった後” に「難民」という建前で日本に密航したまま居座っている在日韓国人問題があります。したがって、この部分に触れずに難民問題に取り組むことは新たな問題を作り出すことと同じです。

  • 受け入れ国の文化・価値観への適応を拒む
  • 「母国への帰還」や「受け入れ国への帰化」を拒絶
  • 外国人の立場のまま、受け入れ国での参政権を要求

 「日本国での義務を負うことなく、日本人と同等の権利を渡せ」と在日の活動家は要求しているのです。

 安易に難民を受け入れると、新たな在日問題がかなりの確率で発生するでしょう。そのしわ寄せは日本人や日本の文化・価値観を尊重する在日などが被る訳ですから、無責任な立場の自称・リベラル派が発する甘言に惑わされないよう注意することが重要です。

 

 ローマ教皇の主目的が「布教」であることを忘れてはなりません。信者が信仰を深めるための発言をすることが役割ですし、信者以外に余計な負担をかけることを何とも思わないでしょう。

 なぜなら、「(カトリックを)信じた者は救われている」と言えるため、宗派拡大に寄与することになるからです。“信者ビジネス” が色濃くなっている現状を念頭に置いておくべきですし、宗教団体のトップによる政治的発言を極端にありがたがる必要はないは言えるのではないでしょうか。