自粛要請を無視した『K-1』や『スペイン帰りの沖縄の女子学生』が新型コロナの集団感染を起こした場合に賠償請求ができるようにすべきだ

 「新型コロナウイルスの集団感染を起こす可能性が高いと現時点で考えられている行動を自粛するように」との『要請』が政府から出されていますが、『実行』を選択する個人・団体が現れています。

 実行する自由はありますが、集団感染を引き起こした “尻拭い” を政府がする現状は問題ありと言わざるを得ないでしょう。なぜなら、強行した方が得になり、自粛要請を受け入れた(多くの)人が税金という形で損害の穴埋めを負担させれることになるからです。

 したがって、『K-1』や『スペイン帰りの沖縄の女子学生』が集団感染の引き金を引く結果になった場合に「医療費の全額負担」など損害賠償を請求できるよう法整備をする必要があるでしょう。

 

『K-1』の姿勢は『ダイヤモンド・プリンセスの運営会社』と同じ

 3月22日にさいたまスーパーアリーナでイベント開催に踏み切った『K-1』の姿勢はクルーズ船『ダイヤモンド・プリンセス』の運営会社と同じです。なぜなら、新型コロナウイルスの集団感染が発生しても対応する責務を負っていないです。

 新型コロナウイルスの感染者は “日本国内の医療機関” が見てくれます。しかも、医療費は国(= 日本政府)が負担します。

 つまり、『K-1』の運営者にとっては「イベントを開催し、後は知らぬ存ぜぬを突き通すことで利益最大化ができる」という状況にあるのです。

 「自粛を要請しておきながら損失は自己責任はおかしい」という主張は「新型コロナの治療費を政府(= 国民が払った税金)が面倒を見ている」という事実を無視しています。

 集団感染が起きた際の後始末をイベント主催者が負うなら、“外野” が騒ぐことは筋違いです。しかし、実際は「集団感染が起きた際の弊害を社会に転嫁して自分たちは利益を狙う」という身勝手なものですから、反感を買うのは当然と言わざるを得ないでしょう。

 

「デポジットを払わさせる」か「損害賠償を請求できる」ように法的根拠を速やかに用意すべき

 『自由』は「何をやっても許される」というものではありません。「何をやっても良いが責任を取らなければならない」というものです。

 『K-1 の運営』も『スペイン帰りの沖縄の女子高生』も「自分の行為に対する責任を負わずに済む状況」にあるから反発が起きているのです。

 自粛要請に応じた多くの人は「自分たちは不便に耐えた上で余計な予算支出による行政サービスの低下」という “弊害” を被ることになります。

 「イベント中止の要請をするなら然るべき補償をすべき」と主張するなら、「イベント開催に踏み切るなら、“然るべき賠償” が可能である能力または法的根拠を示せ」と反論されるでしょう。

 社会に多大な損害を引き起こす可能性がある行動をしておきながら、責任を取らずに済む状況が問題なのです。

 「イベント開催者にデポジットを払わせる」、「損害賠償を請求できる」などの法的根拠を政治が準備しておくことは不可避と言えるでしょう。

 

「2週間から1ヶ月の入院・治療・検査費を国が負担している」という現実を無視すべきではない

 日本は行政が『禁止命令』を出す法的根拠を作ることを徹底的に忌避して来たのですから、『要請』を超えて行政ができることは何もありません。

 『要請』を無視することは可能ですし、無視した結果に対する損害賠償責任も(実質的には)ないため、正直者がバカを見る状況にあります。

画像:新型コロナ感染拡大を防ぐために避けるべき環境

 「集団感染が起きやすい “三密” を避ける行動をし、きちんとした手洗いを行い、風邪の症状が出たら休む」という細心の注意を払っていたとしても新型コロナウイルスに感染する時は感染してしまうのです。

 そうした人々の医療費を国が負担することに文句はありませんし、何らかの補償が用意されることは理解できます。しかし、『自由』を根拠にリスクを取ったことで感染したなら、その責任と損害は自らが負わなければなりません

 注意書きがあるにも関わらず、バックカントリーで雪崩に巻き込まれた “バカ” の尻拭いを行政が全力ですることに理解を示す人は少数でしょう。それと同じことが新型コロナウイルスでも起きているのです。

 

 K-1』がイベント実施に向けて発表した対策には「定期的に水を飲むことが感染予防」、「次亜塩素酸水を使った空間除菌を実施」など効果のないものばかりです。

 密閉された屋内・大勢の観客・大声援という危険要素が満載のイベントを主催者が責任を負わずに開催できることは問題視されるべきでしょう。「集団感染が起きてしまっていたのか」が10日ほどが経過した4月にならないと分からないことです。

 「性善説では社会の損害が大きすぎる」との痛感させる行為が散見されているだけに状況次第では『自由』が大きく制約される契機となる可能性が十分にあると言えるのではないでしょうか。