『万引き家族』ならぬ『万引き窃盗犯コンビ』として逃亡を続けていた樋田淳也(ひだ・じゅんや)容疑者が山口県で現行犯逮捕される

 大阪府警富田林署から逃走した樋田淳也容疑者が山口県で逮捕されました。足取りが途絶えていたとのことですが、実質的な “協力者” がいたことが捜査を長引かせた原因になったと言えるでしょう。

 富田林署での対応が「お粗末すぎた」ことは否定できませんが、「防犯対策予算が十分に付けられてのか」という点でも見直しが必要です。なぜなら、樋田容疑者はアクリル板などで作られた壁をこじ開けて脱走に成功したからです。

 この点についての不備を見直すことを避けることはできないはずです。

 

 大阪府警富田林署で留置中だった樋田淳也容疑者(30)が逃走し、加重逃走容疑で逮捕された事件で、山口県警は30日、同県周南市で樋田容疑者が身柄を確保される直前まで一緒にいたとみられる住居不定、無職の東浩司容疑者(44)を占有離脱物横領の疑いで逮捕し、発表した。

 (中略)

 東容疑者の逮捕容疑は、7月下旬から8月上旬までの間に、和歌山県橋本市内に放置されていた大阪府高槻市の販売員男性(25)の自転車1台を横領したというもの。

 大阪府警と山口県警は、樋田容疑者と東容疑者は約3週間にわたり行動をともにしていたとみて、足取りを調べる。

 

大阪府警の管轄は「大阪府内が原則」なのだから、府外に逃走すれば捕まりにくい

 樋田容疑者が大阪府内(しかも富田林市内)で1ヶ月半も逃走し続けていたなら、それは大阪府警の大失態でしょう。なぜなら、捜査能力が致命的に欠けていることを示しているからです。

 しかし、実際は大阪を離れ、西へと(盗んだ)自転車で逃走していたのです。これを「なぜ、大阪府警は見つけれなかったのか」と批判するのは無理があると言わざるを得ません。

 と言うのも、警察や消防のような行政組織は『縦割り』が基本で、各都道府県ごとに管轄が決まっているからです。

 大阪府警は目の色を変えて樋田容疑者の行方を追っていましたが、大阪府外での捜査は積極的に行うことはできません。「犯人を逃してメンツを潰したのは大阪府警」ですし、他の都道府県警は「自らの管轄内での事件への捜査」を優先しがちになる傾向があると言えるでしょう。

 そのため、管轄外へと逃げてしまえば、よほど目立つ行動をしないかぎり、足取りが発覚する可能性を少なくすることができてしまうのです。

 

“窃盗仲間” とともに逃走を続けていた容疑者

 樋田容疑者は「万引きの現行犯」として逮捕され、約1ヶ月半に渡る逃走劇に終止符が打たれました。富田林署から “所持品・所持金なし” の状態で逃亡したのですから、逮捕時の所持品や所持金はほとんどが窃盗で用立てたものと言えるでしょう。

 おそらく、複数の余罪が出てくると考えられるだけに、厳罰に処す必要があるはずです。

 樋田容疑者の逃走劇が成功していた理由は “お仲間” がいたことでしょう。自転車を盗んだ東浩司容疑者と行動を共にすることで、「メディアが取り上げる逃走犯と一緒に行動する人物はいない」という警察や世間の思い込みを逆手に取ることができたからです。

 また、一般用の自転車で時速20キロ弱を維持することは難しくありません。1日で50キロ以上を移動することは困難ではないだけに、「自転車で逃走」という “決めつけ” がないと足取りを掴むことはほぼ不可能だと言えるでしょう。

 

『大阪府警の監視体制』を見直すとともに、『留置所の老朽化対策』も実施すべきだ

 今回の樋田容疑者による逃走劇は少なくとも2点で改善を施す必要があります。

  1. アクリル板などで作られた留置所の壁をこじ開けられた
  2. 「接見者用の出入り口」に対する監視が疎かだった

 マスコミは「接見に訪れる弁護士らが使う出入り口の監視不備」を批判していますが、それだけでは不十分です。なぜなら、樋田容疑者は「アクリル板などで作られた留置所の壁をこじ開けた」からです。

 社会から一時的に隔離する必要がある人物を留置するための施設であるにもかかわらず、「内部から強引に脱出できてしまうこと」が問題なのです。“完璧な設備” は存在しないため、二重・三重の警戒体制は必須です。

 しかし、「力技で脱出可能だった」という留置所の状況は『大阪府警の監視体制』とともに要改善項目と言わざるを得ないでしょう。

 

 それらの改善に合わせ、接見室には “監視カメラ” を設置すべきです。「カメラの設置は人権上の問題がある」との批判については「設置するのはサーモカメラで、室内にいる人数を把握するためのものだ」と反論すれば、カメラ設置に対する理解も得られることでしょう。

 このような対策を講じるためにも「予算」は必要なのです。現場の警察官による「運用」でカバーに走ろうとする判断に歯止めをかける論説を展開する必要があると言えるのではないでしょうか。