イタリアで “移民の男” がイタリア国民を狙ったヘイトクライムを行う

 イタリアで移民の男が地元の中学生が乗ったバスを放火する事件が発生したと AFP 通信が報じています。

 事件の動機が「地中海で難民が死亡することへの抗議」という身勝手なものであり、ヘイトクライムと言わざるを得ないでしょう。そのため、リベラル派はヘイトスピーチ事件よりも厳しい論調で批判しなければならないはずです。

 

 イタリアで20日、スクールバスの運転手が生徒51人を人質に取り、バスにガソリンをかけて火を付ける事件があった。生徒は事件発生から30分後、警察によって全員救出された。地中海で移民が命を落としている事態への抗議が犯行の動機とみられる。

 (中略)

 運転手はセネガル系のイタリア人の男(47)で、2002年からスクールバスの運転手を務めていたと報じられている。弁護士によると、取り調べに対し「移民政策のもたらした結果に注意を集めたかった」と供述している。これに先立ち、複数のメディアが「終止符を打ちたい。地中海での死を止めたい」との男の発言を伝えていた。

 

地中海で亡くなっているのは「移民」という名の “密入国者”

 地中海での死亡が相次いでいるのは「ヨーロッパに辿り着けば、豊かな生活ができる」と考えている “経済難民” です。

 受け入れ側となるヨーロッパ諸国が要求する水準を満たしている人物は一握りで、ほとんどが「密入国者」に該当します。彼らは基本的に「入国申請は拒否」されるのですが、人権派が騒いだことで「滞在が認められる可能性が出た」ことが “無謀な渡航” に拍車をかける結果となりました。

 リビア沖まで出ることができれば、支援団体の救助船がヨーロッパまで輸送してくれるのです。「ヨーロッパまで到達できる船舶」ではなく、「救助船がいる海域まで到達できるボート」がメインになるのですから、事故が増えるのは当然と言わざるを得ないでしょう。

 事故原因を作っているのは移民・難民の方であり、イタリアなどヨーロッパ諸国ではないことに留意する必要があります。

 

自力で生活できない外国人を歓迎する国家は存在しない

 イタリアで中学生が乗ったバスを放火した犯人は「イタリア政府の移民政策」を批判し、犯行に及んだことを自供していますが、イタリア政府の移民政策は何も間違いはありません。

 自力で生活することができる外国人であれば、居住申請が拒絶されることは基本的に起こり得ないでしょう。公共の福祉に反さない限り、どの国においてもビザは出るはずです。

 ところが、地中海経由でヨーロッパを目指す移民の場合は事情が大きく異なります。彼らは自力で生活することができず、受け入れ国が社会保障費を持ち出して彼らを養うことを強いられるのです。

 しかも、“入国申請を拒否される可能性が極めて高い外国人” であり、彼らを自国まで安全に航行させることはナンセンスです。

 「『ユーラシア大陸にある国からボートで出航し、日本で難民申請を目指す人々』を手厚く保護しない日本政府の姿勢が許せなかった」との理由で、日本の中学生が乗ったバスが放火されれば、これは「ヘイトクライム」と言わざるを得ないでしょう。

 イタリアで起きた事件はこれと同じなのです。

 

「地中海での死」を止めたいなら、「アフリカ側での入国申請」を徹底すれば済む

 「地中海での移民の死」を止めたいなら、解決策は「移民申請をアフリカ側で行う」とすれば済む話です。しかし、人道を掲げる界隈が騒ぐことでしょう。

 なぜなら、“自分たちの仕事” がなくなるからです。

 現状は「移民希望者がヨーロッパに辿り着くこと」が重要です。そうすることで人権派が「支援をしなければならない人々が目の前にいる」と騒ぐことが可能になり、本来であれば入国が拒否される人物でも滞在許可を得る可能性を高めていたからです。

 つまり、審査が「到着時」に行われているから、受け入れ国側にいる人権団体が無責任に騒げるのです。ところが、審査が「出発時」に行われると、この手法が通用しなくなります。

 “特別対応” がほとんど消滅しますので、『難民問題』の大部分が解決されることになるでしょう。

 事前に設けた要件を満たした人のみを受け入れれば、ヘイトスピーチの芽を早期に摘み取ることができる上、受け入れ国の文化・価値観に合わない人物を事前に排除できるからです。“難民” は「身の安全があるなら、どの国でも良い」という立場であり、この大前提は忘れるべきではありません。

 

 イタリアでセネガル移民の男が起こしたバス放火事件はヘイトクライムです。ヘイトスピーチよりも厳しい批判をしなければなりませんし、“なかったこと” として扱うことは論外です。

 批判しなければならない時に「沈黙」を選択することは悪手以外の何物でもないと認識する必要があると言えるのではないでしょうか。