「日本語が読めない外国人のために学校側が配慮すべき」との “市民の声” を西日本新聞が肯定的に取り上げる

 日本で生活する外国人の絶対数が増えたことで教育現場などでは “歪み” が生じています。

 その中で西日本新聞が「学校から配布されるプリント類が読めない外国人の保護者への配慮が足りない」との指摘を肯定的に紹介しています。この主張は問題と言わざるを得ないでしょう。

 なぜなら、「大人の外国人が語学習得のために費やすコストを学校側が肩代わりせよ」と主張していることと同じだからです。膨大な数のある外国語をフォローすることは予算がいくらあっても足りないと認識する必要があるでしょう。

 

 「子どもの同級生の親は日本語ができない。学校が配布するプリントは読めず、配慮が足りないのでは」。福岡県久留米市の女性(53)から、特命取材班にそんな声が寄せられた。

 (中略)

 吸収力の高い成長期の子どもに比べ、大人の方が語学習得に苦労しがち。保護者も含め、日本語を話せない人をどう受け入れ、意思疎通をしていくかが教育現場の課題になりつつある。

 

「渡航先の言語を理解できない外国人に配慮を行うだけの予算とリソースがあるのか」という問題

 日本語が理解できない外国人への “配慮” はあった方が良いでしょう。ただ、配慮を行うには「予算」と「リソース(= 資源)」が必要不可欠です。

 「日本語で書かれたプリントを読めない外国人の両親に配慮すべき」と口で言うのは簡単です。

 しかし、国連の公用語でさえ英語・フランス語・ロシア語・スペイン語・中国語・アラビア語の6つです。現場の学校にこれらの言語で “日本語と同じクオリティーの配布物” を日常的に作る能力を保持するよう要求するのは非現実的と言わざるを得ません。

 なぜなら、マルチリンガルの教員は絶対数が限られるからです。仮に外国語能力に長けた教員がいたとしても、「外国語によるプリント作成」の業務が “該当の教員にだけ” 上乗せされるのです。

 特別加算手当で相当な優遇がされない限り、現場の教員から負担増に対する不満が大きくなるのは避けられないと言えるでしょう。

 

外国人自身が負うべき「日本語学習のためのコスト」を日本の公立校が肩代わりする必要はない

 西日本新聞に寄せられた “市民の声” は「欺瞞」と言わざるを得ないでしょう。なぜなら、「配慮」を求めると言いながら、実態は「公的機関への甘え」であることが透けて見えるからです。

 外国で生活するなら、その国の公用語を習得するためのコストは外国人自身が負担しなければなりません。

 日本語学習に必要な “コスト” を負担するのは外国人自身(またはその保護者)であるべきです。日本語教室に通ったり、通訳を用意するのは個々の外国人が自己負担ですべきことです。

 そのような仕組みになっていなければ、「真面目な外国人」や「言語習得能力の高い外国人」ほど不利益を被ることになります。理由は「言語習得能力に劣る外国人ほど、公的機関を “専属コンシェルジュ” として使える」からです。

 学校から配布されたプリントに掲載された日本語の内容が理解できないなら、「自分で料金を払って翻訳サービスを利用する」という選択肢が存在します。しかし、これを学校(= 現場の教員)に “無料で” 負担させようとしているのです。

 行政サービスから一部の外国人が特別待遇を受けられるようになることは問題と言わざるを得ないでしょう。

 

“配布物” の外国語対応をするなら、“成績表” も外国語対応を余儀なくされることは不可避

 現状は『学校からの配布物』への外国語対応に留まっていますが、『成績表の外国語対応』が要求されるのは時間の問題です。

 成績表も配布物になる訳ですから、「日本語ができない外国人への配慮が足りない」との理由でゴネる活動家が出てくるのは避けようがないでしょう。負担は現場の教員にのしかかるのですから、教育の質が低下することは避けられません。

 生徒が学力を身に付けるには「学習塾に通う」など “学校外での学習環境の有無” に大きく依存する教育環境へと行政が舵を切ることはマイナス効果をもたらすだけです。

 一部の外国人の言語能力不足によるストレスを取り除くために大多数の日本人生徒が弊害を被るのは誤った教育行政と言わざるを得ないでしょう。「翻訳のニーズ」があるなら、それをビジネスにすれば良いことです。

 行政にタダ乗りしようと企む活動家の主張に配慮したところで得る利益は少ないことを自覚する必要があると言えるのではないでしょうか。