「表現の自由を守る!」と表明していた立憲民主党・石川大我議員が「『バイバイ、ヴァンプ』の公開停止を求める」と “最悪の弾圧者” へと変貌

 立憲民主党の石川大我参院議員が映画『バイバイ、ヴァンプ!』の公開停止を求める署名への賛同を自身のツイッターで呼びかけています。

画像:石川大我議員のツイート1

 「公開停止」を求めることは『表現規制』であり、現職の国会議員の行為として明らかに一線を越えたと言わざるを得ないでしょう。「該当の映画で描かれた内容は不快である」との “意見” を表明する権利は石川議員にもありますが、「公開停止要求」は明らかに問題なのです。

 

石川議員の主張は「私が容認できる表現には自由が担保されている」という “権力を持った弾圧者” のもの

 石川大我議員(立憲民主党)が『バイバイ、ヴァンプ』の公開停止を要求している理由は「該当の作品が LGBT 差別・偏見をすべて集めた映画」と評しているからでしょう。

画像:石川大我議員のツイート2

 要するに、『バイバイ、ヴァンプ』で描かれていた LBGT 像が “石川議員が許容できる LBGT 像ではなかった” というだけです。日本では『表現の自由』が認められており、作品内で描く LBGT の人物像は自由です。

 石川議員が納得する “聖人君子” のような LBGT を描いても良いですし、登場する悪人やクズは全員 LBGT でも問題ありません。また、実際社会にはあり得ない “特殊条件” を勝手に付け加えることも可能です。

 「LBGT に噛まれると感染して LBGT になる」という “要件” を加えるのは自由ですし、「LBGT が襲いかかった男性が20歳以上の童貞で魔法が使えたために返り討ちにあう」という無茶苦茶なシーンが描かれていても問題ではないのです。

 しかし、石川議員は「描かれている LBGT に容認できない」との理由から公開停止を要求しているのです。これは「容認できない表現内容は規制の対象」と主張していることと同義であり、表現規制と変わりありません。権力者である国会議員がする主張として最低のものと言わざるを得ないでしょう。

 

「表現の自由は民主主義の屋台骨」との石川議員の発言は虚偽だったことが証明された

 野党陣営にとって致命的なのは「野党議員の主張する『表現の自由』は信用できない」との認識が有権者に広がることです。なぜなら、石川議員は「『表現の自由』は民主主義の屋台骨」と言い切っていたからです。

画像:石川大我議員のツイート3,/div>

 しかし、“言っていること” と “やっていること” が真逆であることが証明される結果となってしまいました。

 野党が言いたいのは「野党(やその支持者)にとって都合の良い『表現の自由』は守る」ということでしょう。つまり、野党やその支持者が少しでも不快に感じる表現は『表現の自由』の範疇にはないと言っていることと同じです。

 これでは『表現の自由』を重要視する有権者が野党に投票することは自殺行為です。『表現の自由』を守るために山田太郎議員や自民党に流れざるを得なくなるため、特大のオウンゴールを決めたことに変わりないと言えるでしょう。

 

エロ・グロ・ナンセンスなどの “不快な表現” が『表現の自由』で守られるべき対象

 『表現の自由』で守られる必要があるのは基本的に “不快な表現” と見なされるものです。これは “万人に受け入れられる表現” は反発が起きる可能性がほぼゼロのため、わざわざ『表現の自由』で守る必要がないからです。

 最先端の表現を探すと “エロ系・グロ系・意味不明系など世間から反発を受ける表現” が散見されることでしょう。

 「こうした種類の表現をすること」については『表現の自由』で許容しなければなりません。もし、それをしないなら「誰が不快に感じる」との理由によって “表現できる範囲” が狭められることになり、『表現規制』と同じ効果がもたらされることになるからです。

 昨年の『あいちトリエンナーレ』で炎上したのは「世間の多くに不快感を抱かせる表現を “公費で” していたから」です。

 「他人を侮辱するアート作品」でも作者が私費で制作・展示している場合は『表現の自由』を理由に公開は認める必要があります。しかし、制作や展示に要する費用が “公費負担” なら、これは納税者から厳しい批判を受けてことで撤回に追い込まれるのは止むを得ないことでしょう。

 

 現実世界に直接的な被害者がいないにも関わらず、「作品や表現によって傷ついたから」との理由で公開停止など表現の規制に走る LBGT 団体は「『表現の自由』を阻害する団体」として世間に認識されるべきでしょう。

 「不快感」を根拠に特定の表現を規制して良いなら、「不快である」との理由で『LBGT に賛同を示す表現』も規制して良いことにもなってしまうのです。一線を越えた団体とその動きに賛同を示す議員には同じ立場に属する人々も批判の声をあげなければならないと言えるのではないでしょうか。