自国や地元の学生よりも高額な授業料を設定しても留学生を呼び込める高等教育に日本の大学なども転換すべき

 NHK によりますと、新型コロナウイルスによる影響でアメリカの大学が経営悪化に直面しているとのことです。

 学費が問題になっているのですが、日本との大きな違いは「留学生が高い学費を払っている」という点でしょう。「高い学費を払うだけの価値がある」と(国外から)見なされるような高等教育への転換を図る価値があると言えるはずです。

 

 アメリカでは、新型コロナウイルスの影響で、高校卒業生が4年制大学への入学を取りやめたり、留学生が大幅に減少したりしていることで、大学の経営悪化が鮮明になっています。

 (中略)

 背景には、大学入学を控えた高校卒業生の間で、「オンライン授業は高額の授業料に見合わない」として、大学進学を取りやめたり、入学を遅らせる制度を活用する生徒が増えていることがあります。

 また毎年、全米で100万人前後いた、海外からの留学生が激減していることも大きく影響しています。大学の多くは、留学生に対しては地元の学生よりも高い授業料を課していて、“経営の屋台骨”となってきたという側面があるからです。

 

「景気悪化」と「入国制限」による影響の直撃を受けた

 アメリカの大学は自国民や地元の学生にとっても高額で、卒業時には「多額の学費ローン」を背負うことになっているのが一般的です。そのため、オンライン授業が割に合わないと感じたり、卒業時の雇用情勢に不安を覚えると入学を先送りにするでしょう。

 また、アメリカは国外から多額の留学生を受け入れており、高い学費を支払うことができる外国人は大学経営にとって大きなプラスをもたらす存在となっています。

 ところが、新型コロナウイルスが世界中で感染拡大したことにより、多くの国が国境を閉鎖しました。アメリカ入国が難しくなれば、留学生は通学どころではありません。

 アジア系の学生については「新型コロナウイルス」だけでなく「暴力を伴う人種差別」も懸念材料となってしまっただけに見送らざるを得ない状況になってしまったと言えるでしょう。

 大学経営における収益源は『学費』と『寄付金』です。ファンドを運営する学校もあるでしょうが、大部分は『学費収入』であり、これが大きく減少する状況に見舞われた限りは経営が悪化することは避けようがないと考えられます。

 

日本も留学生には『自国民や地元民よりも高い学費』を設定すべき

 日本の大学における高等教育については『アメリカ式』を導入すべき部分があると言えるでしょう。特に、「留学生に対する学費設定」についてです。

 高い学費であることは分かり切っているアメリカの大学に留学生が向かうのです。つまり、それだけの教育的価値を提供できれば、日本の大学にも国外から多数の留学生がやってくることでしょう。

 “生活援助をしてまで呼び寄せた留学生” が中心になっている現状では『大学に対する(国際的な)評価』が高まることはありません。

 「援助があるから行ってあげた大学」と「行きたい大学」ではどちらが評価が高くなるかは火を見るよりも明らかです。また、『自国民や地元民よりも高い学費』を設定していれば、その中から「日常生活をサポートするチューター役」などを雇用するための資金源になります。

 海外生活では行政手続きなどが意外なストレスとなる訳ですから、留学生を対象にしたプロのサポートが提供されるような仕組みを “留学生の学費” から支出することで満足度を高めることは可能と言えるでしょう。

 

“質” を確保できないなら、『高等教育』の意味がなくなってしまう

 専門性を持った質の高い学生が排出されるから、『高等教育』に税金が投入される根拠になっているのです。それができないのであれば、『実務学校』の色合いを強める方向へと舵を切るべきでしょう。

 社会では「成果」が求められる傾向が強くなっており、「会社にいる(≒ 働く)だけ」では高額な報酬を得ることは難しくなっています。

 工場であれば、作業員が働いた分だけ製造物が出来上がるという『成果』があります。しかし、サービス業では「労働時間と成果の比例関係が薄い」ため、労働時間に拘ることで生産性が悪化するケースが往々にして起こり得るのです。

 これは「勉強時間」と「テストの点数」の関係にも当てはまります。高得点という『成果』のためには勉強が必須ですが、成果を出すために必要な勉強時間には個人差があります。

 そのため、「勉強時間に応じたテストの点数を配分する」という “量” に比重を置いた方法は不満を呼ぶことになるでしょう。だから、“質” を確保することが重要になるのです。

 

 義務教育では “量” を与えることで反復練習を通して基本を身に付ける意味は大いにあります。高等教育に入ると、授業時間という “量” で単位を与えるのではなく、“質” に重点を置いた評価基準によって単位を付与する形に変更していくべきと言えるのではないでしょうか。