「知的障害者の監督義務がある保護者は賠償責任が免除される」との判決が大分地裁で出たことにより、分断は進行するだろう
共同通信によりますと、知的障害者から突き飛ばされたことが原因で死亡した男性の遺族が知的障害者の両親を相手取った損害賠償訴訟が大分地裁で棄却されたとのことです。
この判決で健常者と障害者の分断は進行することになるでしょう。なぜなら、知的障害者は賠償能力の欠如から免罪され、(監督義務者である)両親は賠償責任がないと司法が判断したからです。
つまり、知的障害者と関わったことで生じた損害はすべて泣き寝入りを強いられるのです。賠償能力のない子供が引き起こした損害と同様の賠償責任を監督義務者が負わない限り、障害者への風当たりは強いままとなるでしょう。
大分市のマンション階段で2014年、知的障害のある無職男性=当時(42)=から突き飛ばされ死亡した男性管理人=同(62)=の遺族が、監督義務違反を理由に男性の両親に計約5364万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が22日、大分地裁であった。佐藤重憲裁判長は請求を棄却した。
訴状などによると、男性と当時70代だった両親はこのマンションに同居し、14年10月31日に行方が分からなくなった男性の捜索を母親が管理人に依頼。管理人は2階付近の階段にいた男性を見つけ連れ戻そうとしたが、男性は嫌がり、階段下に突き飛ばした。管理人は脳挫傷を負い、その後死亡した。
「家族が24時間365日監督する訳にはいかない」という詭弁
賠償能力を持たない(と司法が認定している)知的障害者や認知症患者を擁護する立場と採る “人権派” が主張するのは「家族が24時間365日監督することは不可能」というものです。
この主張は正しいように感じるでしょうが、実際は詭弁です。なぜなら、賠償能力を持たない未成年者を監督義務者である保護者(≒ 両親)は24時間365日監督していないからです。
「賠償能力を持たない」という点では未成年者・知的障害者・認知症患者は同じ立場です。
つまり、人権派が「四六時中、監督するのは無理」と主張して知的障害者や認知症患者の監督義務者を守るなら、同じロジックを “問題を起こした未成年者の監督義務者(≒ 両親)” にも適用しなければなりません。
自分たちの活動資金になる対象だけを擁護し、「社会全体でコスト負担すべき」などと主張する活動家の声に耳を傾ける必要はないと言えるでしょう。
障害者の家族から「所在不明だから探して欲しい」との要望を受けても、善意で動くべきではない
大分で起きた事件は知的障害者の母親から「行方が分からなくなったから探して欲しい」と依頼され、善意で捜索に協力した管理人が知的障害者から突き飛ばされて亡くなりました。
“障害者の監督義務者が捜索を依頼した人” が障害者の行動によって亡くなった事件であるにも関わらず、「監督義務者の賠償責任はない」と判断されたのです。
この痛ましい事件の教訓は「障害者とは関わるな」でしょう。なぜなら、知的障害者もその監督義務者も一切の賠償責任を負わないことが明らかになったからです。
怪我をしても、治療費や慰謝料を得ることはできません。所有物を破損されても、弁償を命じる判決が司法で出ることはないでしょう。なぜなら、人が亡くなった事例であっても、賠償責任が回避されていることが理由です。
したがって、厄病神でしかない存在は「距離を取ること」が一般人にできる唯一かつ現実的な対応策なのです。
これを「差別だ」と主張したいなら、障害者や認知症患者による “狼藉” で負った損害を人権派が代わりに賠償すべきです。それすら行わずに安全な立場にいる人権派が主張する内容などキレイゴトに過ぎないと言わざるを得ないでしょう。
『未成年者である子供』を監督する際と同じ責任を保護者に負わすことができないのか
知的障害者への風当たりが強い理由は「本人が責任を負わない立場にある」という “特権” を持っているからです。
問題が発生した場合、知的障害者自身は責任を負う必要はありません。しかし、問題発生による損害は残ったままであり、別の誰かに損害が押し付けられることになるのです。
これは知的障害者を監督する立場にある者が負って当然です。ところが、「監督義務を24時間365日続けられない」との詭弁が “まかり通る” のです。
子供である未成年者を24時間365日監督することは不可能ですが、監督義務者である保護者は賠償責任を負います。その一方で、知的障害者や認知症患者の場合は監督義務責任が免除されるのですから、不公平と言わざるを得ないでしょう。
「知的障害者とも社会で共存すべき」と主張するなら、社会で共に生活する際の責任を負わなければなりません。責任が免除された “無敵の人” を野放しにすることで得られる社会的なメリットは何もありません。
知的障害者を持つ家族とそれを支援することで活動資金を得ている界隈の自己満足に過ぎないからです。他者に責任転嫁をすれば、自らの負担が楽になることは目に見えています。
社会の分断を加速させているのは「障害者手帳」を『印籠』のように使おうとする界隈です。健常者と同じように社会で受け入れられることを希望するなら、最低でも未成年者と同様の責任を監督義務者が負うことが必要不可欠です。
「その責務を負いたくはないから、社会が支援・我慢しろ」という声が大きくなるほど、障害者から距離を取る人が増え、理解されにくくなるという現実を認識する必要があると言えるのではないでしょうか。