神戸市立の小学校で「教員による教員への暴力問題」が発覚、これを『いじめ行為』と誤魔化すことは止めるべき

 神戸新聞によりますと、神戸市立の小学校に勤務する教員が後輩の同僚教員に対して暴行などの問題行為を起こしていたことが明らかになったとのことです。

 刑事事件に該当する問題もありますが、「学校内で発生した問題」であることを理由に『いじめ』としてオブラートに包むことは止めるべきと言えるでしょう。なぜなら、そのような姿勢が『いじめ問題』の温床となり得る大きな要因だからです。

 

 神戸市須磨区の市立東須磨小学校の20代男性教員が、同僚の先輩教員4人に暴行や暴言などのいじめ行為を昨年から継続的に受けていたことが3日、関係者への取材で分かった。

 (中略)

 関係者によると、加害側の教員は30~40代の男性3人、女性1人。LINEで別の女性教員らに性的なメッセージを送るよう強要。男性教員の車の上に乗ったり、その車内に飲み物をわざとこぼしたりした。

 また、コピー用紙の芯で尻をたたいて腫れさせ、「ボケ」「カス」といった暴言を頻繁に浴びせていた。男性教員は「羽交い締めにされ、激辛カレーを無理やり食べさせられたり、目にこすりつけられたりした」とも訴えているという。

 

「暴行」や「強要」はどちらも刑事事件に該当する問題

 教育問題が根深くなる理由は「世間一般では刑事事件となるような問題がオブラートに包まれるから」でしょう。

 神戸市立の小学校で発生した問題は暴行罪や強要罪を視野に入れた刑事事件として対処されるべき内容です。前者は「硬いコピー用紙の芯で殴打したこと」が事例で、後者は「性的メッセージの送信を強要したこと」が該当するからです。

 ところが、「加害者と被害者が教員で学校内で発生した問題」を理由にマスコミは『いじめ問題』と報じています。これは世間一般とは一線を画していると言わざるを得ないでしょう。

 なぜなら、報道された問題が神戸新聞の内部で発覚すれば、少なくとも「ハラスメント問題があった」と報じられるはずだからです。それを『いじめ問題』とオブラートに包んで報じるのですから、問題が生まれる温床は維持されることになってしまうのです。

 

学校内の “治外法権” を解消しない限り、『いじめ』と表記される “事件性の高い問題” は解決へと向かわない

 学校内で発生する問題が解決されないのは「学問の自由」を学者が唱えるため、現場が “治外法権” となり、自浄作用が働きにくい環境ができてしまっているからでしょう。

 世間一般では「刑事事件」と見なされるような問題でも、学校内で起きたものや学校関係者が絡んだものは『いじめ』とオブラートに包まれます。

 しかも、問題の解決を “その道のプロフェッショナルではない” 教員に行わせるのです。解決能力を備えている教員が対応に当たるケースが稀であることは明らかですし、不味い対応が目に付くことも当然です。

 生徒だけでなく、教員に対する “外部の目” が適切に機能しないのなら、教育現場が『伏魔殿』と化すのは避けようがありません。

 そのような状況が当たり前となると「教育の質」が急激に低下し、社会全体が不利益を被ることになってしまうのです。教育現場に対して世間一般と同じ基準で批判ができるようにすることがマスコミの責務と言えるでしょう。

 

教育委員会が “なあなあの処分” を下すのではなく、刑事および民事事件として対処すべき

 学校内で同様の問題が起き続ける理由は「身内が処分の内容を下せる制度が(独自に)採用されているから」でしょう。そのため、仲間意識が働きやすく、“目溢し” や “大穴の処分” でお茶を濁すことになるのです。

 治外法権的な対応が黙認されている理由はメディア業界も同様の制度で運用されているからです。

 情報伝達の主要経路を抑える新聞社は『言論の自由』を全面に押し出し、批判を黙殺するダブルスタンダードを平気で適用します。また、新聞社を含む企業グループを形成するテレビ局は公平・中立の責務がありますが、それをチェックする BPO はマスコミの “お仲間” が委員であるため、可能な限り擁護してくれます。

 問題を起こした人物に対して身内が処分内容を決めるのですから、「言い逃れや隠蔽が不可能な事案」を除いて消極的な対応に終始するのは当たり前です。

 これを防ぐには “小さな問題” であっても対処は「外部に該当する司法に一任すること」を徹底することが求められます。神戸市の小学校で明るみになった教員間での問題行為は転換点とすべき事案だと言えるのではないでしょうか。