「ない」ものを「ある」と作り出した “本家本元” の朝日新聞がイッテQを「放送への信頼を傷つけた」と社説で批判

 『慰安婦問題』という “ないもの” を作り出して “ある” とした前科を持つ朝日新聞が11月17日付の社説で自作自演が報じられたイッテQ(日本テレビ系列)を「放送への信頼を傷つけた」と批判しています。

 ただ、これほど「お前が言うな」と世間の批判を招く言論は見当たらないと言えるでしょう。なぜなら、「ない」ものを作り出して「ある」とする行為は朝日新聞が本家本元だからです。

 また、英語での謝罪記事にメタタグ(meta tag)を忍ばせて隠蔽に走る有様なのですから、まずは自分たちの報道姿勢から省みる必要があるのです。

 

 きっかけは週刊文春の記事だ。芸人が世界の祭りを訪ねる番組中の企画について、5月に放映されたラオスの祭りは存在せず、日テレ側の自作自演によるイベントだと報じた。

 (中略)

 高視聴率が生んだおごりか、あるいは数字を維持するために逸脱行為に及んだのか。

 娯楽の要素が強いバラエティー番組は報道と違う、多少の演出は必要だ、という声もある。だが、「ない」ものを作り出して「ある」とする行為は、公共をになう放送番組として許されない。

 朝日新聞が掲げた主張は “真っ当な正論” ですが、それを自分たちに適用していないことが問題なのです。この視点が欠落しているから、部数の凋落が止まらない原因になっていると言えるでしょう。

 

「ない」ものを作り出して「ある」とした行為に手を染める自社グループを批判しない朝日新聞

 朝日新聞は社説で「 “ない” ものを作り出して “ある” とする行為は放送番組として許されない」と主張しています。そのように要求するなら、自社グループにも同じ基準を適用しなければなりません。

  • 朝日新聞:慰安婦問題など
  • テレビ朝日:森友・加計問題など

 朝日新聞やテレ朝は「ない」もの作り出してを「ある」とした行為に幾度となく手を染めています。これらを批判することなく、他社の行為だけを批判することはダブルスタンダードと言わざるを得ないでしょう。

 しかも、朝日新聞は不正行為に手を染めていたことを認めることを拒み、訂正記事が英語圏に知られることを隠蔽することに奔走していたのです。そもそも、イッテQの “編集” を批判する資格は朝日新聞には存在しないのです。

 

朝日新聞やテレ朝も「公共」に該当するため、自作自演は許されない立場にある

 「バラエティーであっても、自作自演が許されない」と主張するなら、テレビ朝日が放送している「報道風・バラエティ番組」に対しても同じ基準で批判しなければなりません。具体的には『報道ステーション』のような情報番組です。

 『報道ステーション』は報道の名前が付いていますが、報道番組ではありません。なぜなら、ニュースを取り上げる際にナレーションや BGM を使い、情報を編集・脚色しているからです。

 報ステのような番組は事件・事故が起きた際には「なかった」音声・映像が「あった」とする行為に手を染めているのです。誤報・捏造の温床となる “自作自演” をしているという自覚を持つ必要があるでしょう。

 テレビ朝日が放送するのはいずれも「公共を担う放送番組」ですし、朝日新聞は「公共性がある」との理由で軽減税率が適用される立場にあります。イッテQと同等以上の厳しい倫理が要求されていると言えるはずです。

 

自社のセクハラ問題を揉み消すテレビ朝日すら糾弾できない朝日新聞という現実

 朝日新聞が自社に適用している基準で他社を批判しているなら、読者や世間一般からの支持を得ることはできるでしょう。しかし、現実は「身内には極端に甘く、他人は重箱の隅を突いてでも批判する」という態度なのです。

 これでは反感を買って当然です。公平性が欠けているのですから、中立的な立場で物事の判断を下したいと考える(日本で圧倒的多数派である)無党派層が離反する結果を招いてしまうのです。

 「ない」もの作り出してを「ある」とする行為は問題ですが、「ある」もの隠蔽してを「ない」とする行為も同様に問題です。誤報・捏造報道であったり、テレ朝の内部で明るみに出たセクハラ問題がこれに該当します。

 ただ、朝日新聞は身内の不祥事は “なかったもの” として扱いますし、報じたとしても「アリバイ程度」です。「公共を担う放送番組を製作する側でセクハラ行為が発生していたなど論外」と社説で厳しく批判していることが健全な形と言えるでしょう。

 プライドの高いマスコミが自らのミスを認めることはないでしょう。情報伝達経路を独占することができていた過去と決別することができない限り、自らのことを棚にあげた的外れな論説が世間の失笑を買う状況が続くと言えるのではないでしょうか。