「 “不寛容な主義・主張” をも受け容れよ」と要求するリベラルの寛容さが招く問題
『朝日新聞』によりますと、キリスト教のフランシスコ法王が「欧米の民主主義を輸出しようとしたことが過激派のテロを呼び起こすことになった」との見解を示したとのことです。
民主主義には保守系からリベラル系までの “幅” が存在します。問題が生じることになった理由として、どのようなことが考えられるのでしょうか。
ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は、16日付のフランスのカトリック系日刊紙ラクロワ(電子版)のインタビューで、欧米がイラクやリビアの文化を考慮せずに民主主義を輸出しようとしたことが、過激派によるテロが続く現状につながったとの考えを示した。
(中略)
また法王は、欧州で難民・移民を拒否する動きが広がっていることについて、ブリュッセルのテロ犯が移民街の出身だったことに触れ、「最悪の受け入れの仕方は『ゲットー化』だ。移民はむしろ統合されなければならない」と指摘。
まず、欧米で根付いている “民主主義” ですが、これはキリスト教の価値観に基づく民主主義に分類されるものです。
その価値観の中で、イラクやリビアに輸出されたものは “リベラル的な考え” だったと言えるでしょう。なぜなら、自分たちの伝統を守ろうとする保守派的な考えは外部に持ち出す理由が少ないからです。
リベラル派の主張には「多種多様な主義・主張に寛容さを示すべき」というものがあります。しかし、この主張には強烈な副作用が存在したのです。
世の中には “到底受け入れられない主義や主張” というものが存在します。欧米圏での『ナチス称賛』であったり、イスラム教圏での『コーラン侮辱』などがこれに該当するでしょう。ところが、リベラル派が追求する「寛容さ」を文字通り解釈すると、世間から受け入れられそうにない主義・主張を容認することになるのです。
イスラム原理主義者は従来の部族社会では「不寛容な存在」として扱われてきました。ところが、欧米から民主主義(リベラル派)の考えが輸入されたため、過激派の活動を取り締まる根拠が喪失することとなりました。
問題があると世間の大多数が感じる主義・主張であっても、リベラル派を自称しているため、批判の声をあげることはできない。もし、批判をしようものなら、「リベラルが持つ寛容さを失った」と逆に批判されることになるでしょう。
リベラル派が批判される最大の理由は「発生するコストの負担を社会全体に押し付けていること」です。
「〇〇には行政から支援を受ける権利がある」と呼びかける姿はありますが、支援の元手(=税金)を出している納税者に対して理解を求めることへの優先度は低くなっています。こうしたリベラル派の活動に行政が呼応するほど、納税者が置き去りにされることになります。
納税者には有権者としての顔も持っており、自分たちのことよりも自称・難民など外国籍を優遇する政権や政治家に選挙を通してNOを突きつけることは当然と言えるでしょう。
「差別思想を持った移民」や「キリスト教を敵視する移民」など現地コミュニティーを敵対視する人物は必ず存在するのです。そういった人物をリベラルの “寛容さ” で受け入れなければならないと主張するのでしょうか。
無制限な寛容さが招くことは混沌だけなのです。そして、主義・主張が世間一般に思い通りに浸透しなかった時、左派は暴力手段に打って出ることは歴史が示しています。
キレイゴトを述べるだけの左翼界隈の主張を鵜呑みにせず、疑っておく習慣を身につけておく必要があると言えるでしょう。