朝日新聞系列のハフィントンポスト、「記者会見時での質問者の社名公表は必要なのか」と “安全地帯” の存続を要求
大津市で発生した交通事故に保育園側の記者会見で “狼藉” を行ったマスコミが名指し批判を受けています。
この事態に対し、朝日新聞系列のハフィントンポストが「質問した記者の社名がネットでさらされた。社名公表は必要なのか」と疑義をツイートしています。
社名や記者名を名乗るのは当たり前と言えるでしょう。なぜなら、所属や氏名が非公表であれば、記者に群集心理が働くことになり、メディアスクラムが加速するからです。これを制限するためにも、責任の所在は明確にする必要があるからです。
ハフィントンポストのツイート内容
ハフィントンポストが公式ツイッターアカウントで投稿した内容は次のものです。
記事を書いたのはハフポでニュースエディターを務める中村かさね氏で、「対話を生み出すことがメディアの役割の1つと考えている」と主張しています。
ただ、公式ツイッターアカウントが投稿した内容と記事の間に「隔たり」があります。読者との対話を生み出すのであれば、「誰が質問したのか」を読者が知っていることが前提条件です。
ですが、「質問した記者の社名がネットにさらされた」とハフポはツイートしているのです。記者会見で「質問」ではなく、「自らの意見を主張」する記者もいる有様です。
記者の能力を正しく評価する上でも、社名や記者名を名乗らなくて良いとの理由にはなり得ないと言えるでしょう。
「マスコミ」という大枠があれば、「個別の報道機関や記者は批判されない」というご都合主義
取材の現場でマスコミが社名や記者名を名乗ることに消極的な理由は「責任の所在を曖昧にできる」という恩恵があるからです。
これまでは「マスコミは国民の代弁者」と見なされていました。また、取材で得た情報の編集権を持つ唯一の存在であったため、現場でマスコミ関係者がどれだけ狼藉を働いたとしても世間に知られる前に封じ込めることが可能でした。
しかし、インターネットの登場で現場の様子がノーカットで知られると、マスコミの狼藉行為に対する批判が起きるようになったのです。
取材会見で報道機関の社名や記者名を名乗ると、読者から「問題あり」と見なされた時点で批判が直接寄せられることになります。これはプライドの高い記者には耐えがたい屈辱と言えるでしょう。
その屈辱を受けたくないから、社名や記者名を名乗ることに消極的で『マスコミ』という大枠を維持したいだけなのです。マスコミという大枠があればマスコミ全体が批判されるため、メディアや記者が個別に批判される最悪の事態は回避できます。
「発言による責任の所在を曖昧にしたままで好き勝手に相手を批判できる」という従来の利権を維持させろという要求をしているに過ぎないと言えるでしょう。
取材対象者の顔写真や氏名を平気でさらすマスコミの「自分たちの個人情報を公開したくない」は通用しない
マスコミは取材対象の氏名や顔写真を普通に報じているのです。事件の遺族や被害者などのからの「取材を控えて欲しい」との要望も自社の収益のために平気で無視するのですから、「記者の名前を公表されたくない」は通用しないでしょう。
『マスコミ』という責任の所在を曖昧にできる “身代わり” があれば、責任が追求されない立場の記者が暴走するのは目に見えています。
「『朝日新聞』や『テレビ朝日』の評判だけが下がる」という事態に陥れば、当該報道機関に所属する記者は自制することでしょう。しかし、『マスコミ』という曖昧な枠組みがあれば、特定の報道機関の評判だけが下がることはありません。
マスコミ全体の評価が下がるように見えますが、「一部の暴走でマスコミ全体がバッシングされるのはおかしい」と逆ギレができるため、不届きな取材方法に手を染める記者が最も利益を得るという間違った評価基準が出来上がってしまうのです。
“勘違い記者” を増長させないためにも、問題行為をした記者や所属先には厳しい批判を続ける必要があると言えるでしょう。
「事実を基に、中立・第三者の視点で記事を書く」という姿勢を徹底していれば、社名や記者名を取材現場で名乗ることに何ら問題はないはずです。
しかし、現状は「弱者の側に立ち、権力を監視することが役割」という “間違った時代遅れの価値観” を根強く、炎上を招く原因になっています。「言論による責任の所在を曖昧にし、好き勝手に相手を非難できる」という特権が失われたことを自覚しなければなりません。
主観に基づく記事を匿名で書き、その責任を一切追求されて来なかったことが異様だったのです。それが是正されただけなのですから、他の業界と同じように真摯な姿勢で業務を行い、信頼を得ることが重要と言えるのではないでしょうか。