あいちトリエンナーレの『表現の不自由展』、「見学の不自由展」と揶揄されるレベルの検閲体制で再開に漕ぎ付ける

 『昭和天皇の写真を燃やし、その灰を踏みつける映像作品』などが展示されていたことが抗議や批判の声が殺到し、中止となっていた『あいちトリエンナーレ』の『表現の不自由展』が再開されたと NHK が報じています。

 ただ、 “閉じられた芸術展” という形で再開しており、公金である税金を投入するイベントとしては不適切です。「主催者が来場者よりも開催実績をアピールする場として活用している」と言わざるを得ないでしょう。

 

 愛知県で開かれている国際芸術祭で中止された「表現の不自由」をテーマにしたコーナーは8日午後2時すぎから再開されました。

 8月1日から開かれている「あいちトリエンナーレ」では、「表現の不自由」をテーマに慰安婦問題を象徴する少女像などを展示するコーナーが設けられましたが、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次ぎ、開幕から3日で中止されました。

 (中略)

 芸術祭の会場やその周辺で警備員を増やすなど、態勢も強化しました。

 入場者の制限も行っています。会場での混乱を防ぐため、入場者を事前に抽せんで選び、1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式でコーナーを見てもらう予定です。さらに入場にあたっては、貴重品を除く手荷物を預けてもらうほか、金属探知機によるチェックも受けてもらいます。

 このほか、コーナーが中止される前にSNS上で断片的な情報が拡散し、抗議の電話やメールなどが殺到したことから、入場者による動画の撮影を禁止しSNS上での拡散を防止するとしています。

 

「見学の不自由展」と化した『表現の不自由展』

 『あいちトリエンナーレ』で開催されている『表現の不自由展』に批判が殺到した理由は「特定の政治的主張を “現代アート” という理由で税金を使って展示を強行した」からです。そのため、展示内容と公金投入についての批判を呼ぶこととなりました。

 批判が寄せられることは事前に想定されたことですが、主催者は甘く見ていたのでしょう。それが裏目に出てしまい、「展示を中止する」との判断を下すに至ったのです。

 「お仲間による失笑物の擁護論」と「表現の自由」を根拠に展示再開まで持ち込みましたが、展示再開後の基準は検閲と言わざるを得ない状況となっています。

  • 来場者は「抽選」で決定
  • 1回あたり30名を上限とする
  • 係員による事前説明を受けた上、ツアーガイド形式で見学を行う
  • 動画撮影は禁止、SNS への投稿禁止の誓約書
  • 写真は「後日送付」を採用

 上述の条件を設けているのですから、表現の自由を毀損しているのは『表現の不自由展』の主催者と断言できるでしょう。それだけデタラメな基準を “一方的に” 設けているからです。

 

「自由に見学・批評のできない芸術展」に公金をつぎ込む根拠はない

 公金である税金を『あいちトリエンナーレ』のような芸術展に投入する理由は「納税者である国民に作品群を自由に見学し、論評や批評をしてもらうため」です。

 だから、公共性を理由に様々な芸術分野に対して補助金が付けられているのです。しかし、『あいちトリエンナーレ』の実行委員会は「公共性」に乏しい “真逆の対応” を採りました。

 作品群に対する事前説明を受けた人にのみ閲覧を許可し、論評や批判をする権利を制限したのです。

 この手法は「検閲」であり、閉ざされたイベントは「税金を投入するに値しない」と言わざるを得ないでしょう。「作家や主催者の意図した主張しか認めない」というスタンスこそ、『表現の自由』を語る界隈による『言論の自由の否定』なのです。

 ここまで展示再開に執着したということは主催者や出品者にとって「展示の実績」は “新たな飯のタネ” とするために欠かすことができなかったのでしょう。

 

なぜ『表現の不自由展』を「自腹で実施しよう」としないのか

 作家が自身の作品を表現する機会は(日本国内では憲法によって)保証されており、『あいちトリエンナーレ』の件でも権利は確保されていると言えるでしょう。

 批判が起き続けている大きな要因は「特定の政治思想を表現・展示する公的イベントに税金が投入されていること」です。つまり、『表現の不自由展』が賛同者やスポンサーが費用負担で行われていれば、大きな批判を招くこともなかったのです。

 なぜ、国(≒ 文化庁)からの補助金が得られないと「表現の自由が脅かされる」などと主張する “芸術家” が現れるのでしょうか。

 このような作家がやっている行為は「無償化の対象外となった朝鮮学校には学問の自由が保証されていない」と主張することと同じです。論理に類似性がありますから、似た価値観を持つ界隈が双方の件で騒いでいるのでしょう。

 いずれにせよ、自分たちの主義・主張を “現代アート” を通して世に発信したいなら、それは支援者を含めた自腹で行うべきものです。

 

 主催者が「作品や展示内容が世に知れ渡ると強い反発が起きる」と自覚しているから、内容が世間に知れ渡らないように厳しい制限を設けているのでしょう。つまり、展示に公共性がないことを認識していることを自白したも同然です。

 公的機関が主催する芸術展に展示されたという実績で箔を付けたい作家と芸術利権で甘い汁を吸いたい活動家が行政と結託した『利権体質』にメスを入れ、適切な予算執行が行われているかを現状よりも厳しくする必要がある騒動になっていると言えるのではないでしょうか。