パラリンピアンをアスリートだと認めない価値観こそ、差別的だと言わざるを得ないのではないか
NHK によりますと、2020年の東京パラリンピックを盛り上げるために掲示されたポスターに対し、批判が寄せられたことでポスターが撤去されたとのことです。
「パラリンピアンの意気込み」であったにも関わらず、「障害者への配慮が欠ける」とのクレームが勝ったことは問題と言えるでしょう。なぜなら、パラリンピアンを “アスリート” と見なしていないからです。
東京都が、再来年の東京パラリンピックを盛り上げるためのイベントに合わせて東京駅などに掲示したポスターの一部に対し、障害者への配慮が欠けているなどという意見が相次いだことから、都は16日までにポスターを撤去しました。
(中略)
このうち、パラバドミントンの杉野明子選手のポスターには「障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分が弱いだけ」と記されていましたが、インターネットや電話を通じて「障害者への配慮が欠けている」などという意見が相次いだということです。
アスリート本人が「障害を敗因にするのは言い訳」と明言したことに何の問題もない
杉野明子選手が「障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分が弱いだけ」と本音を述べたことで周囲から批判を受ける理由は何もありません。アスリート本人の意気込みであり、「こうした価値観もある」と社会に受け入れられるべきことです。
むしろ、杉野選手の言葉に対して「障害者への配慮が欠けている」と文句を付けた人々の方が問題です。
なぜなら、パラリンピアンを目指す杉野選手のような選手をアスリートと見なしていないからです。「障害者は社会から同情されるべき弱者」と決めつけているから、健常者のアスリートがするような発言をした杉野選手の行為が「配慮を欠いている」ように見えるのでしょう。
パラリンピアンもアスリート、オリンピック競技とはカテゴリーが異なるだけ
パラリンピックを競技として成り立たせたいのであれば、スポーツ面に焦点を当てる必要があります。「社会から同情されるべき “弱者” がスポーツを頑張っている晴れ舞台」という認識ではアスリートとして選手が評価されることが難しくなるだけだからです。
スポーツ選手である以上、評価の基準は「アスリートとしての能力」であるべきです。「敗けたのは障害のせい」と発言する選手より、「障がいは言い訳にすぎない」と宣言する選手の方がアスリートとして望ましいと言えるでしょう。
「経済的に恵まれた練習環境がなかったから敗けた」と発言するようなアスリートが尊敬を勝ち取ることはできないでしょう。同じ競技環境でアスリート同士が成績を競うことがスポーツなのですから、勝敗はアスリート自身の “選手としての能力” に大きく左右されることになります。
その項目を最大限評価せず、“障害を持つ” をいうアスリート能力とは無関係な部分で「配慮を欠く」との批判は筋違いと言わざるを得ないでしょう。
障害を “飯のタネ” にしている人は「障害者が健常者と同じ土俵で活動すること」に否定的だろう
「障害者は同情し、手を差し伸べてあげるべき弱者」と決めつけている人や障害を “飯のタネ” にしている人にとって、「障害者が健常者と同じ土俵で活動すること」は迷惑なことでしょう。
なぜなら、自分たちの価値観や活動が無意味なものになってしまうからです。「障害者という弱者のためを思って行動する自分」に酔っている人ほど、杉野選手の「障がいは言い訳にすぎない」との発言に反発したことが予想されます。
ハーフというだけで『ハーフで悩む人々の先頭に立って行動するスポーツ選手』というレッテルを貼り付け、日本社会を批判するメディアがいるのですから、その対象がパラリンピアンになっただけと言えるでしょう。
パラリンピアンもアスリートなのですから、アスリートとして敬意を払って接すれば良いだけです。“特定の属性” を持っているだけで、その属性を代表して政治的な立場を採ったり、配慮する必要はないのです。
『バリアフリーを訴える啓発ポスター』ではなく、アスリートとして注目されるべき『パラリンピックのポスター』であるとの事実を見据えた対応が必要だったと言えるのではないでしょうか。